2013/10/26

☆ episode 4 寒中水泳 1963年2月17日

☆ episode 4 寒中水泳 1963年2月17日
その日の朝は随分冷え込んでいたが、天気が良く、お昼には随分気温が上がっていた。 日曜なので、昼ご飯を食べた後、近所の子供達は遊びに出るのだが、遊ぶ場所が少ない。当時水田のための溜池であった西池は、折からの寒波のせいで、池の表面には氷が張っている。 池の西の方は、竹藪などの陰になっていて、氷が溶けにくく、厚さは3~5cmあって、子供達が数人載っても割れない厚さ。 だから、西の方で運動靴のまま滑ったりして遊んでいました。 その内、体の軽い子とちょい太めのS君が東の端まで行けるんじゃないかと、池を横断しだした。 後15mそこそこで渡れるという時に、足元の氷にヒビが入り、S君が氷の割れ目に落ちてしまったようである。 しばらくして、誰かの叫び声で何かあったと気づいた。2~30m先を見ると氷に穴が空いていて、なにやらバチャバチャやっている。
商家のドラ息子で、ちょっといけ好かないから、半分からかいに近づいていった。割れ目がなかったので、1m位まで近づいたら、あっという間に氷の割れ目が広がり、私も落ちてしまった。 冷たい!
かろうじて、つま先が池の底につく、そしてS君がしがみついてきた。 私は早く岸に上がりたいので、両手で氷を叩いて割り、前に進むと、S君も一緒についてきた。 ほどなく岸に上がると、メッチャ寒い!後からS君も上がってきて、二人ともトボトボ歩いて自宅に帰った。家が近くで良かった。
母親に叱られること、大変。メチャメチャ五月蝿くてか叶わん。
後から考えると、バシャバシャさせるだけで、直径2m程度の氷の穴から動かなかったS君、あのままだと同級生とはいえ、私より20cm以上背が低いし、あの水の冷たさ。ひょっとしたら、恐ろしいことになっていたかも。
その後3週間してから、こんなものを頂きました。
『表彰状:第四学年二組・サム:あなたは去る二月十七日午後三時頃 ××町蟹甲西池於て 結氷の割れ目に落ち溺れそうになって助けを求めている友人を発見 自ら氷点下の水中に着衣のまま入り救出しました その臨機応変の沈着な判断力 真の勇気と深い友情は他の模範であります 仍て茲にこの行為を表彰します 昭和三十八年三月十日:愛知県○○郡××町西小学校長□田○夫』
だってさ。
そうそう、S君の家から、下着を2枚戴きました。これってなんだろうね?

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2013/09/25

episode 3 台風一過 1959年9月26日

☆ episode 3 台風一過 1959年9月26日
台風が来ると言われ、学校を早く帰らされた。 雨はないのだが、かなり風が強く、薄ら寒いので、あまり外で遊ぶ気にもならなかった。
すきま風がかなり吹き込み、足元は寒いほど。 もっとも、食事をする場所は、家の中ではあっても、元々は屋外。 二部屋しかない家の東側に、お風呂と台所を増設した場所で、床はセメントで固め、敷居がないので、扉の下は風が通り抜ける。 セメント(モルタル)で固めた床だから、足が水平でなく、いつも北東側の足に厚い板を噛ませていた。
東側から、炊事の流しとお釜があり、テーブル、テーブルとほぼ同じ高さの窓、8畳間の室内と並んでいて、見ようによっては、最新式のキッチンカウンターにも見える。
6時頃食事をして、今の布団に入った。もちろんTVなんかない。 ラジオがカリカリしゃべっているだけ。ふと気が付くと、あちこちから雨音が、ポタン、ポタン!。洗面器や、丼で雨漏りをうける。 外はゴーゴーと唸る風、北側の雨戸を叔父が釘で打ち付けて、風で飛ばされないように雨の中を作業している。 そのうち、裸電球も切れて、停電状態になった。
北の窓を少し開け、雨戸の隙間から外を見ると街は真っ暗で、時々懐中電灯の明かりがよぎっている。 まだ、相変わらず外は強風の音がする。

そして台風が通り抜けたのは土曜の夜。夜が明けると、爽やかな風が町中を吹き抜け、細々したものが総て洗い流されている。なんか精気の抜けた街になっている。
我が家の南側は、隣の土地が屋根の高さまでの畑になっていたので、風は総て屋根の上を通過。 小さな我が家は、こうして台風を乗り切った。私は寝ていただけだけどね。
外に遊びに出てみると、役場付近の田圃では、稲刈りが終わったところを鯉や鮒などが泳ぎ回っている。 河口では大変だったという天白川も、この辺りでは、決壊もなく、ただただ、水があふれているだけでした。
大人達は、忙しく何かを片づけていましたが、私は鼻を ほじっているだけ。 誰も構ってくれず、なんとまぁつまらない日曜日だったことか。
翌月曜日、小学校へ行ってみると、一番東側の木造校舎が南側に、5゚以上傾いていて、
今にも倒壊しそう。
伊勢湾台風は、こんな風にして、我が街を抜けていきました。

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2013/09/01

episode 2 漏洩問題 1957年XX月XX日

episode 2 漏洩問題 1957年XX月XX日
長野から愛知県に戻って日進という町に移り住んだ。 戦前に住んでいた蟹江ではなく、名古屋の東隣に位置する場所を何故選んだかはよく判らない。 ただ、日進の中の地名に蟹○○○という場所があって、それに惹かれたのか? 確かに我が家では甲殻類が好きなわけだが、、。
名古屋に近いというのに、その頃、父は東京方面へ出稼ぎに行っていた。 向こうの方が仕事が多いのかも知れない。 残った母は、日銭を稼ぐため豆腐屋を始めた。 周り近所に豆腐屋がなかったせいか、徐々に軌道に載っていったようだ。 当然子供は商売の時邪魔、母は乳離れもしない妹を背負う。 兄は毎朝、弟を連れて家を出て、小学校のすぐ手前の保育園に私を預けて登校していました。
ある日のこと、腹の具合が悪かったのか、どうか判りませんが、お尻がもぞもぞしてきて、、もう持たないと判ってからも、シャイな性格?でなかなか言えないで今したが、とうとう先生に 我慢できないと訴えました。 そしてトイレに向かったのですが、その前にパンツの中に噴出してしまった! 子供だからと言っても、恥ずかしい記憶です。
当然、ズボンにも糞は浸透し、保育園にあったパンツとスカートを穿いて帰りました。つまり、女装したんだよね。(笑
そういえば、あの時の汚れたパンツとズボン、確か軽く洗って、手で持って帰ったような記憶があるけど、どうしたんだっけな? 1㎞の道のり、トボトボと歩いた記憶はあるけど、どう持っていたかは判らない。

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2013/02/19

episode 1 衝突回避 1955年XX月XX日

プロローグ

人間の記憶は曖昧な物である。 備忘録としてトピックスを残しておくのも、記録として面白かろう。 では、一番古い記憶は、生まれた時の、、、それは既に忘却の彼方にある。 では、次は。

☆ episode 1 衝突回避 1955年XX月XX日

場所は、国鉄中央本線(この頃は日本国有鉄道であった)の途中、長野県内にある洗馬駅より少し名古屋よりの踏切の近くである。
北東から南西に走っている線路と直行する道は、南側の少し高い丘に向かって緩い上り坂になっており、その坂道の北東側斜面には、すぐ脇に社がある。
踏切の反対側の先は国道19号線に繋がっており、国道と線路が平行に走るこの辺りは、旧中山道として、重要な役割を担っていたと思われる。 社から杉木立を通して見渡せば、これこそ「信州」と思わせる深い山間の風景が広がっている。 洗馬という地名も、血汚れた木曽義仲の馬をここで洗ったことからこの地名が付いたと言われている。
この緩い坂道の南側に、お粗末な納戸のような建物があり、名古屋大空襲の時以来、我が家族が住んでいたそうだ。
ある日の事、私は乳母車に乗せられていて、きゃっきゃ、きゃっきゃと騒いでいた。 すると、兄が面白いからといって、乳母車を坂の上まで押してきた。 5歳になっていただろう、この頃の子供は意外と力があり、力を出すことが好きな年頃でもある。 坂の上から手を離すと乳母車はガタガタ道を下り、よく揺れるので、私はまた余計にうれしがっていた。 鉄のしっかりした軸と車輪の乳母車は、ガタゴトしながら真っ直ぐ勢いを付けて踏切に向かう。
踏切の手前で、左に少し逸れ、踏切脇にぶつかって止まった。
もし踏切に入って、汽車が来ていたら、、、今、私はここにいない。
兄はこっぴどく怒られたと思う。 私は事態が判らず、はしゃぐだけ。 この頃から、楽天的なノー天気な性格だったのだと思う。


Seba


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